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はじめて大糸線のキハ52形に乗った日。(1993年3月の写真から) [アナログ写真保存庫]

何だか、大糸線キハ52形の話題を書くと普段の何倍もの閲覧数(PV)を記録するみたい。なぜなのか、まったく分からない。風光明媚な路線としては“全国区”の路線だけに多くの<鉄>の皆さんが素晴らしい写真の数々を残されていて。
そこに<変態鉄>の下手くそな写真が割り込む余地など1ミリたりとも無い筈だが...

でも、調子に乗って酷い写真たちを恥ずかしげも無く...

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【2009年5月2日6時18分】 大糸線・糸魚川駅

当時、「キハ52形」など知るよしもなかった。糸魚川駅で待っていたディーゼルカーは単行。車内はスキー客で超満員。キハ20系ディーゼル動車特有の丸みのある車体形状、まさに“一目惚れ”のような。
このときから、30年近く近づいたり離れたり、なんだかんだでキハ20系を撮り続けている。

スキー客で超満員の車内。座ることもできず、確か運転台後ろの座席が撤去されたスペースで立って過ごした。
キハ52形は、まもなくはじまる大糸線のワンマン化に対応するため転入したものと知るのは、もっと後になってから。
車両はワンマン対応でも、当時はまだ車掌さんが乗務していた。普通列車にもかかわらず、発車直後の車内放送には「アルプスの牧場」のオルゴールが演奏され。
チャイムを鳴らして放送するのは特急・急行だけ...と信じていたガキにとっては、衝撃を受けた瞬間だったのだ。

1993年3月。この朝の富山駅は吹雪いていた記憶が。

……  ……

中学を卒業して、高校に進学したのが1993年春。富山の祖母のもとへ、その報告と挨拶に...
生まれて初めて1人きりで寝台列車に乗ったのも、このとき。

一転、帰り道は「青春18きっぷ」を手に、

 富山(北陸本線)糸魚川(大糸線)松本(中央東線)甲府(身延線)富士(東海道本線)東京

という、いまでは絶対に気力がわかないような長旅を。それだけ自分も若かったのか。

最初のブログをスタートしたのが2011年10月、まもなく丸10年を迎えるのである。その最初期、まだ日々の記事の書き方もバラバラだった時代にご紹介した写真を再掲して...
といっても、特急寝台「北陸」号ではない。特急寝台など中学生には高嶺の花。小遣いを貯めに貯めて、足りない分は親から借りて。
自分で買ったのも嬉しかった。上野駅を21時発、急行「能登」号である。ちょうど、この93年改正で489系電車に変わることが決まっていたが...

EF62形電気機関車が先頭に立ち、14系座席車とB寝台車の編成。B寝台車は時刻表に「客車3段式」の注記が。当時、消費税は3%だった筈。3段式寝台は5,150円、2段式寝台は6,180円だっただろうか。中学生にとって、この1,030円差は非常に大きかった。
憧れの寝台列車。「ハイケンスのセレナーデ」で始まる車内放送にもコーフンしたものだった。

当時、すでに一眼レフ“EOS”を手にしていたが、すっかり舞い上がってしまった自分。フォルム交換を焦ってカメラを壊してしまった。
ということで、予備の単焦点式コンパクトカメラ(いま書くと叱られるが、当時の言い方だと“バ※チ※ン”)で撮るしか無かった。いや、予備のコンパクトカメラを用意して出かけた自分を褒めてあげたい。

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【1993年3月】 北陸本線(当時)・糸魚川駅

富山県内で一度、途中下車。糸魚川駅まではこの電車。419系は当時の北陸本線では当たり前の存在だった。特急型の格下げ車だけあって座席は大きめだったが、何と言っても中上段寝台のケースが邪魔で。正直、“ハズレ”だと思っていた。

電車に寄らず、遠目にテキトーに撮っているのもその証。でも、跨線橋下に掲げられた「シュプール号で信州へ」の広告看板、当時はスキー臨時列車が北陸本線から大糸線経由で白馬へと乗り入れていた。長編成の客車列車が白昼堂々、大糸線を走っていたのである。学校の図書館で「鉄道ジャーナル」あたりの頁をめくりながら「ふぅ~~ん」といっていたようなガキである。

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【1993年3月】 大糸線・糸魚川駅

最後まで変わらなかった糸魚川駅西端の欠き取りホーム、ここがゴーニーの“定位置”。
向こう側のホームには国鉄特急色の485系(??)が居るが、当時は誰も見向きもしない編成だった。「北越」か「雷鳥」あたりか??
当時、ほくほく線など夢物語の域を出ず、北陸対東京の主流は上越新幹線長岡乗り換えだった。

そしてレンガ造りの機関庫横ではEF81電気機関車が休んでおり。

ホーム上の時計は11時前を。ということは、富山は朝食を済ませてすぐの出発だった??

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【1993年3月】 大糸線・糸魚川駅

駅舎側から撮ったこのシーンは、キハの塗色は変われど2010年まで変わることはなかった。
ネガの退色が酷くてよく分からないが、冬の北陸らしい鉛色の雲。雨飾山をはじめとした山々を見ることはできなかったと記憶している。

この写真、改めて見てみると右隅に。奥の留置線にはローズピンクのEF81電気機関車がいるが、その隣に黄色い車体が。スキー客による多客増結か、あるいは臨時列車か、黄色い“能登路”色を纏ったキハ58系の姿も微かに見えており。

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【1993年3月】 大糸線・南小谷駅

やはり、山間部に入って行くに従って雪深くなり。
南小谷駅は雪の中だった。この駅の雰囲気もそう大きく変わっていないが、やはり、「ようこそ、シュプール号で信州へ」の横断幕が掲げられており、国鉄がJRになっても全国共通のブランドとしてスキー臨時列車は「シュプール号」だった。東京、大阪から大糸線沿線まで中央東線経由も中央西線経由も北陸・大糸線経由もいろいろあった。
485・583系が中心だったが、20系・14系寝台車や車両も多彩な顔ぶれで。でも、当時はそれにカメラを向けようと思わなかった自分、いまとなっては悔やまれる。

写真の左隅にはホームの待合室、中でオッサンがタバコを吸っているのがわかる。都心部では“終日禁煙”がはじまっていたが、まだまだ「禁煙」の場所の方が特別だった時代。

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【1993年3月】 大糸線・南小谷駅

キハ旅はここまで。ここからは115系電車で。これもリバイバルカラーではない。“旧信州色”の115系快速に乗り換え。
こちらはボックス席に座れた気がする。一面の雪原を走り...

松本駅からはスカ色の115系。ガキにはだんだん飽きてくる午後...である。

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【1993年3月】 身延線・鰍沢口駅

そして、甲府からは身延線を下って。当時、甲府駅からの身延線は富士駅まで直通する列車と鰍沢口駅あたりで折り返す列車が半分くらい。
次の富士ゆきに乗っても良かったのだが、ちょうどホームにいた鰍沢口ゆきが165系4連で大コーフンだった記憶が鮮明に。急行「富士川」号の間合い運用だろうか。

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【1993年3月】 身延線車内

当時のJR東海は165系電車が多く居て。4連は静岡配置で急行「富士川」に運用されていた。夕方の間合い運用の区間列車、車内は閑散としており、当時の自分としては珍しく車内の様子も記録している。
ズラッと並んだボックスシート、紺色のシートに白いビニールの枕カバー。お尻が痛くなって辛かったが、でも、懐かしい思い出。

静岡県内に入る頃には車窓は真っ暗。富士駅ではちょっと待って、これまた急行「東海」号の間合い運用だった165系編成の普通列車を選んで。終電近い時間帯に東京駅に到着した記憶がある。

つい、この前のことだと思っていたら、すでにこの写真を撮って27年のときが過ぎて。
あの頃はあの頃で大変なことも多かったが、いま、戻れるとしたら、デジカメを持ってこの時代に帰りたいと...そんなことを思うのだった。

……  ……

さぁ、明日の朝は4時起き。枕元のアラームは3回、鳴る予定。果たして...

(※)撮影時刻は写真データのものです。したがって、実際の時刻とは多少前後します。

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