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青梅鉄道公園お別れ訪問記 2023.8.22(6) [保存車・博物館・廃線跡]

青梅鉄道公園を訪れたかったのは、単に“葬式鉄”的な、何というか最後だからとお祭り騒ぎ的なもの...ではなく、撮っていなくて心残りなものがあったため。でも、撮った写真を整理していると、その1両だけ説明板の写真を撮り逃しており...

幸い、9年前の2014年2月、大雪の翌日の青空の下...

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【2023年8月22日10時14分】 東京都青梅市勝沼・青梅鉄道公園

あのときは車両には近づけなかったのに説明板だけは撮っているという何とも謎な行動を。9年越しに必要な写真が揃うという...まぁ、そこが拙ブログ。

ということで、静態保存車をテキトーに紹介していくシリーズ、今回は2機のタンク機関車を。


……  ……

2023年8月22日(火)曇り時々雨

何と言っても、国鉄型のタンク機関車と言えばC11形である。

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【2023年8月22日10時39分】 東京都青梅市勝沼・青梅鉄道公園

新橋の駅前に飾られているのもC11、東武鉄道で走っているのもC11、大井川にもC11...。保存機が非常に多く動態でも残っているのは使い勝手の良さとローカル線でも走れる身軽さ...ゆえだろうか。

ただ、そんな“名機”が生まれることになったのは、1920年代の昭和初期の不況と都市部での他の交通手段(私鉄・バス)との競合激化によるフリークエンシーサービスの必要性。大きく速い機関車を開発して...ではなく、都市部もローカル線も短編成の列車を高頻度運転することが必要となり、小型のタンク機関車の需要が高まっており...

当時は、前記事の「ピーテン」のような舶来の古典蒸機を、タンク機関車化改造して使っていたようだが、その老朽化も進んでおり。
C10形の使用結果を踏まえて、1932年(昭和7年)に製造が始まるのが、このC11形。1932年(昭和7年)から1947年(昭和22年)まで15年もの長きに渡って製造が続けられ、国鉄向けだけで381機(私鉄向けの同型機多数あり)が誕生した。

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【2023年8月22日11時02分】 東京都青梅市勝沼・青梅鉄道公園

さて、このC111号機。製造は汽車製造会社大阪で1932年8月。関西地方に新製配置され、奈良や紀伊長島にいたとされる。(関西地区で何度か転属しているようで)
太平洋戦争が始まる直前の時期に、鳥取機関区上井支区(現在の倉吉駅に隣接)へ再び異動。でも、1944年には篠山線開業に伴い、福知山機関区篠山口駐泊所に転じて、その後は福知山で過ごしたようで。戦後は主に入換機として、ずっと福知山で過ごしており。
1962年(昭和37年)保存のため大宮に転属(保存整備実施のため)、同年10月26日付けで廃車となり、青梅鉄道公園へ搬入されている。

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【2014年2月22日11時08分】 東京都青梅市勝沼・青梅鉄道公園

2014年の訪問時は雪の降り積もる中で。そういえば、只見線(会津側)も長らくC11形が牽いていた筈。雪まみれのC11形というのも、なかなか良いものだが、ただ、足回りを撮ることはできなくて...というより、東京では珍しいほどの雪。翌日でも機関車に近づけないほどの雪が残っていた。

そう、その後ろにいる、もう1機のタンク機関車を見たかったのだが...

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【2023年8月22日10時18分】 東京都青梅市勝沼・青梅鉄道公園

9年越しにしっかり撮ることができたのが、E102号機。

現在、山形新幹線になっている“福米線”は奥羽山脈の急な上り勾配区間。キハ181系特急でさえ電気機関車の助けを借りないと通れないような難所だった。
その急勾配の補機はずっと4110形という大正初期に製造された機関車が担っており...

すでに電化工事が始まっていた同区間、でも、4110形の老朽化は酷く需要数を全部賄うのではなく新型機を少数投入して...、その“ショートリリフ”を任さたのが、E10形だった。

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【2023年8月22日10時17分】 東京都青梅市勝沼・青梅鉄道公園

まず、タンク機とは思えない車体の大きさ。そして、何と言っても「E」の通り、5個の動輪が並んでいるのはこの機関車の大きな特徴。
1948年(昭和23年)に僅か5機が製造された「E10形」が、国鉄型蒸気機関車の最後の新製となった。(このあとも改造による新形式はあるが...)

さて、このE102号機。1948年(昭和23年)3月に汽車製造会社大阪で誕生、新製配置は、やはり、庭坂機関区。
でも、福米線の電化は進んでおり、翌49年には早くも電気機関車に後を譲って人吉機関区(熊本県)に転属、肥薩線の急勾配区間に転用されるが、重い機関車だけに軌道への横圧の問題で使用できないと判明し、1950年(昭和25年)には金沢機関区に転属となる。

どこの職場も1年以内に追われ...、何だか薄幸な機関車である。

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【2023年8月22日10時39分】 東京都青梅市勝沼・青梅鉄道公園

こちらも急勾配の難所、北陸本線の富山と石川の県境にある「倶利伽羅峠越え」に使われた。ここが“安住の地”になったのか...
同機としては長く7年ほど倶利伽羅峠で活躍したみたい。

でも、まもなく電化に合わせて勾配を緩和した新線に付け替えられ、ここからも追われ。米原付近の交直切り替え区間のリリーフ役に転じて...
ただ、それも長くは続かず。1961年には米原区で休車となり、そのまま、1962年に保存整備のため大宮に転属、同年10月に廃車となっている。

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【2023年8月22日10時17分】 東京都青梅市勝沼・青梅鉄道公園

大型機関車が必要とされる線区は“動力近代化”の中で電化される流れとなっている中、国鉄最後の新形式蒸気機関車は遅すぎたのかも知れない。

この機関車、国鉄の蒸気機関車の中では唯一、こちらが正面となる設計だった。(他の期間者と同じようにすると右側運転台となる)

単純に考えれば、上り勾配の峠越えのとき、トンネルを通過する際などには煙が後ろに流れてくれて良さそうな気がするのだが...
このバック運転が定位という珍しい仕様は敬遠されたのか?? 金沢区時代に他の機関車と同じ向きになるように前後を入れ替える改造を実施しており。
ただ、そのまま前後を変えると右側運転台になってしまうので、北陸本線の機関士さんたちには違和感があったとか...

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【2014年2月22日11時07分】 東京都青梅市勝沼・青梅鉄道公園

そう、そんなE102号機の説明板だけ記録していなかった。
う〜ん...相変わらずの詰めの甘さである。(つづく)

(※)撮影時刻は写真データのものです。したがって、実際の時刻とは多少前後します。

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