夜明けのスカーレット ~ 2005年2月の岐阜の朝 ~ [思い出の名鉄岐阜線]
ちょっといろいろあって...、というか、仕事がドタバタ続きで。つまり、ネタ切れなのである。
9月も折り返し点にくるが、カメラをもって外出したのは8月27日が最後で。ということで古いネガを掘り起こして。
10年に及ぶ拙ブログの歴史、実は、昨日の記事も基本的に写真は再掲のものばかりで。昨日の「夜行列車3連発」というのは、拙ブログ開設当初の記事で書いたものだった。
同じ写真を見て記事を書いても、10年経つと思うこと、書くことがかなり違っており。
まぁ、リメイク版ということでお許しいただきたい。
さて、何度か書いてきたが、自分が初めて動いている電車にカメラを向けたのは、つまり、<撮り鉄>の“原点”といえるのが名鉄岐阜市内線だった。
残念ながら、その名鉄岐阜市内線は2005年春に全廃となる。
【2005年2月頃】 名鉄岐阜市内線・新岐阜駅前電停(当時)
廃線の数年前に、なぜか大幅な体質改善策が...
純然たる市内電車と郊外を走る揖斐線に分かれていたものが、日中も直通運転が基本となり。新型車両が次々に投入されて。
でも、朝晩に限って...だが、最後の最後まで純然たる路面電車型の車両も残って。
それが名鉄岐阜線生え抜きのモ570形だった。1991年に初めて、カメラを向けて以来、何度も見てきた電車。廃止を前にその姿を撮りたくて。
ただ...
いまでこそ、当たり前に撮っている、いわゆる「バルブ撮影」、夜間の長時間露光など挑戦したこともなく。
「どう撮れば良いの??」、とりあえず三脚にカメラを載せて、長時間露光で...
もちろん、世の中、そんなに甘くはない。失敗写真の山を築くだけだった。
でも、その思い出の写真をご紹介したい。いつも以上に酷い写真ばかりだが...
…… ……
今日の話題の“主役”、名鉄モ570形は1950年(昭和25年)から5両が製造された。古典的な四輪単車が多かった岐阜の電車の中では大型ボギー車は、名鉄岐阜市内線の歴史の中でもエポックメイキング的な存在だったかも。一部は美濃町線に配置されていたが、のちに5両全部が岐阜市内線に集結し。
【2005年2月頃】 名鉄岐阜市内線・新岐阜駅前電停付近(当時)
都電6000形のソックリさんとしても知られた存在だった。当初は名鉄岐阜線の“標準色”でもあった下半グリーン、上半クリームのツートンカラーだったが、もちろん、自分が知るようになった時には名鉄スカーレット塗りつぶしの塗装だった。
【2005年2月頃】 名鉄岐阜市内線(当時)・モ571号車内
ワンマン化改造を受けてはいたものの、その運賃箱も本当の「箱」、乗客が投入した小銭を運転士さんが確認し、ヨコのレバーをひねると底が開いて硬貨が下に落ちるというプリミティブな仕組み。
薄暗くてわかりにくいが、左下にその運賃箱がチラッと見えている。
運転席の背面に張られた紙は、岐阜線全廃の告知。もちろん、それを知っての訪問だったが、それでも改めてこれを読むと複雑な心境だったのである。
【2005年2月頃】 名鉄岐阜市内線(当時)・モ571号車内
この電車、当時の名鉄電車には多かったピンク色の内装で。
最大の特徴ともいえたのは最後の最後まで車内灯が白熱灯照明で残っていたことだろうか。戦後すぐに多くの都市で導入された半鋼製車体の路面電車、その雰囲気をそのまま残していた存在だった。
早朝の忠節駅までタクシーで駆けつけて、その車内を独り占めしながら、早朝のまだクルマも疎らな目抜き通りを...
…… ……
JR岐阜駅向かいの...すでに場末感が強かった(← 何て失礼な!!!)繊維問屋街の裏にあるホテルで何泊かした記憶があり。
この早朝限定のモ570形運用も何度か撮ったのをかすかに覚えている。
確か、靴が壊れて新岐阜駅前の商業施設で、なぜか<撮り鉄>中に靴を買う...という不思議な行動をしていたのも覚えがある。あの靴、結構、長持ちした。
雨の朝もあったみたいで。当時はISO400のネガフィルムでの撮影。2月の雨の朝は写真を撮るには厳しい条件で。でも、そんなことは言っていられなかった。新岐阜駅前と徹明町の間を歩き回りながら何度も何度も撮ったのだった。
【2005年2月頃】 名鉄岐阜市内線・新岐阜駅前電停付近(当時)
新岐阜駅前電停に到着するモ570形。日中は大勢の買い物客と多くのクルマで、すっきり撮るのが難しい場所だが、早朝なら...
いざとなると、カメラが右下がりに傾くのは、いまもむかしも変わっていない自分のクセ。
画面いっぱいに電車を大きく写しこむのが当時の自分の撮り方。それしかできなかった。あえて電車を小さくしたのは被写体ブレを恐れたため...だろうか。
十六銀行本店の重厚な、いかにも“銀行建築”と呼べる建物、そして新岐阜から徹明町を経て柳ケ瀬へとつながるアーケードを入れられたのも、いま見てみるといい感じである。
そして、何とっても、薄暗かったからこそ。白熱灯照明の柔らかい色合いの光が漏れて。
モ574号車は増備車で、側窓の数が1つ減って9個になったモデルチェンジ車だった。
…… ……
乗った日もあったが、早朝の新岐阜駅前で折り返す姿を...
岐阜線の廃止を早めた一因になったのは岐阜市街地の道路の狭さ。最後の最後まで電停に安全地帯を設けることは許されず、全部が、いわゆるノーガード電停だった。
【2005年2月頃】 名鉄岐阜市内線・新岐阜駅前電停(当時)
かろうじて新岐阜駅前電停だけは周囲がロープで囲まれており。
それにしても、道路中央に三脚を立てて撮っているのだから...
当時の自分は、それだけ若かったのかもしれない。
【2005年2月頃】 名鉄岐阜市内線・新岐阜駅前電停(当時)
乗客を降ろした電車は、いったんJR岐阜駅方向に進んで。バスターミナルの前あたりに渡り線があって、そこで折り返して乗車ホームへと。
【2005年2月頃】 名鉄岐阜市内線・新岐阜駅前電停(当時)
こんどは忠節ゆきとして発車を待つ姿を降車側から。車体上部の表示器には「客扱い中」の赤い文字が。
【2005年2月頃】 名鉄岐阜市内線・新岐阜駅前電停付近(当時)
さぁ、いよいよ発車時刻。今度は交差点の向こう側から。
写真としてはどう見ても失敗作としか言いようがない1枚だが、それでも、この前照灯を輝かせて新岐阜駅前を発車するモ570形の姿、自分にとっては貴重な記録となったのである。
…… ……
冒頭にも書いた通り、この記事、前ブログ時代にご紹介した写真の再掲になるのが多く。でも、当時は1万円台で見つけた簡易なネガスキャナーで取り込んだ画像だった。色調もおかしく画質も劣っており。
その頃、取り込んだネガを新しいスキャナーで再スキャンしているのである。
ということで、2005年の全廃直前の名鉄岐阜線のネガを何本かスキャンしたので、ちょっとずつご紹介したい。
(※)撮影時刻は写真データのものです。したがって、実際の時刻とは多少前後します。
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9月も折り返し点にくるが、カメラをもって外出したのは8月27日が最後で。ということで古いネガを掘り起こして。
10年に及ぶ拙ブログの歴史、実は、昨日の記事も基本的に写真は再掲のものばかりで。昨日の「夜行列車3連発」というのは、拙ブログ開設当初の記事で書いたものだった。
同じ写真を見て記事を書いても、10年経つと思うこと、書くことがかなり違っており。
まぁ、リメイク版ということでお許しいただきたい。
さて、何度か書いてきたが、自分が初めて動いている電車にカメラを向けたのは、つまり、<撮り鉄>の“原点”といえるのが名鉄岐阜市内線だった。
残念ながら、その名鉄岐阜市内線は2005年春に全廃となる。
【2005年2月頃】 名鉄岐阜市内線・新岐阜駅前電停(当時)
廃線の数年前に、なぜか大幅な体質改善策が...
純然たる市内電車と郊外を走る揖斐線に分かれていたものが、日中も直通運転が基本となり。新型車両が次々に投入されて。
でも、朝晩に限って...だが、最後の最後まで純然たる路面電車型の車両も残って。
それが名鉄岐阜線生え抜きのモ570形だった。1991年に初めて、カメラを向けて以来、何度も見てきた電車。廃止を前にその姿を撮りたくて。
ただ...
いまでこそ、当たり前に撮っている、いわゆる「バルブ撮影」、夜間の長時間露光など挑戦したこともなく。
「どう撮れば良いの??」、とりあえず三脚にカメラを載せて、長時間露光で...
もちろん、世の中、そんなに甘くはない。失敗写真の山を築くだけだった。
でも、その思い出の写真をご紹介したい。いつも以上に酷い写真ばかりだが...
…… ……
今日の話題の“主役”、名鉄モ570形は1950年(昭和25年)から5両が製造された。古典的な四輪単車が多かった岐阜の電車の中では大型ボギー車は、名鉄岐阜市内線の歴史の中でもエポックメイキング的な存在だったかも。一部は美濃町線に配置されていたが、のちに5両全部が岐阜市内線に集結し。
【2005年2月頃】 名鉄岐阜市内線・新岐阜駅前電停付近(当時)
都電6000形のソックリさんとしても知られた存在だった。当初は名鉄岐阜線の“標準色”でもあった下半グリーン、上半クリームのツートンカラーだったが、もちろん、自分が知るようになった時には名鉄スカーレット塗りつぶしの塗装だった。
【2005年2月頃】 名鉄岐阜市内線(当時)・モ571号車内
ワンマン化改造を受けてはいたものの、その運賃箱も本当の「箱」、乗客が投入した小銭を運転士さんが確認し、ヨコのレバーをひねると底が開いて硬貨が下に落ちるというプリミティブな仕組み。
薄暗くてわかりにくいが、左下にその運賃箱がチラッと見えている。
運転席の背面に張られた紙は、岐阜線全廃の告知。もちろん、それを知っての訪問だったが、それでも改めてこれを読むと複雑な心境だったのである。
【2005年2月頃】 名鉄岐阜市内線(当時)・モ571号車内
この電車、当時の名鉄電車には多かったピンク色の内装で。
最大の特徴ともいえたのは最後の最後まで車内灯が白熱灯照明で残っていたことだろうか。戦後すぐに多くの都市で導入された半鋼製車体の路面電車、その雰囲気をそのまま残していた存在だった。
早朝の忠節駅までタクシーで駆けつけて、その車内を独り占めしながら、早朝のまだクルマも疎らな目抜き通りを...
…… ……
JR岐阜駅向かいの...すでに場末感が強かった(← 何て失礼な!!!)繊維問屋街の裏にあるホテルで何泊かした記憶があり。
この早朝限定のモ570形運用も何度か撮ったのをかすかに覚えている。
確か、靴が壊れて新岐阜駅前の商業施設で、なぜか<撮り鉄>中に靴を買う...という不思議な行動をしていたのも覚えがある。あの靴、結構、長持ちした。
雨の朝もあったみたいで。当時はISO400のネガフィルムでの撮影。2月の雨の朝は写真を撮るには厳しい条件で。でも、そんなことは言っていられなかった。新岐阜駅前と徹明町の間を歩き回りながら何度も何度も撮ったのだった。
【2005年2月頃】 名鉄岐阜市内線・新岐阜駅前電停付近(当時)
新岐阜駅前電停に到着するモ570形。日中は大勢の買い物客と多くのクルマで、すっきり撮るのが難しい場所だが、早朝なら...
いざとなると、カメラが右下がりに傾くのは、いまもむかしも変わっていない自分のクセ。
画面いっぱいに電車を大きく写しこむのが当時の自分の撮り方。それしかできなかった。あえて電車を小さくしたのは被写体ブレを恐れたため...だろうか。
十六銀行本店の重厚な、いかにも“銀行建築”と呼べる建物、そして新岐阜から徹明町を経て柳ケ瀬へとつながるアーケードを入れられたのも、いま見てみるといい感じである。
そして、何とっても、薄暗かったからこそ。白熱灯照明の柔らかい色合いの光が漏れて。
モ574号車は増備車で、側窓の数が1つ減って9個になったモデルチェンジ車だった。
…… ……
乗った日もあったが、早朝の新岐阜駅前で折り返す姿を...
岐阜線の廃止を早めた一因になったのは岐阜市街地の道路の狭さ。最後の最後まで電停に安全地帯を設けることは許されず、全部が、いわゆるノーガード電停だった。
【2005年2月頃】 名鉄岐阜市内線・新岐阜駅前電停(当時)
かろうじて新岐阜駅前電停だけは周囲がロープで囲まれており。
それにしても、道路中央に三脚を立てて撮っているのだから...
当時の自分は、それだけ若かったのかもしれない。
【2005年2月頃】 名鉄岐阜市内線・新岐阜駅前電停(当時)
乗客を降ろした電車は、いったんJR岐阜駅方向に進んで。バスターミナルの前あたりに渡り線があって、そこで折り返して乗車ホームへと。
【2005年2月頃】 名鉄岐阜市内線・新岐阜駅前電停(当時)
こんどは忠節ゆきとして発車を待つ姿を降車側から。車体上部の表示器には「客扱い中」の赤い文字が。
【2005年2月頃】 名鉄岐阜市内線・新岐阜駅前電停付近(当時)
さぁ、いよいよ発車時刻。今度は交差点の向こう側から。
写真としてはどう見ても失敗作としか言いようがない1枚だが、それでも、この前照灯を輝かせて新岐阜駅前を発車するモ570形の姿、自分にとっては貴重な記録となったのである。
…… ……
冒頭にも書いた通り、この記事、前ブログ時代にご紹介した写真の再掲になるのが多く。でも、当時は1万円台で見つけた簡易なネガスキャナーで取り込んだ画像だった。色調もおかしく画質も劣っており。
その頃、取り込んだネガを新しいスキャナーで再スキャンしているのである。
ということで、2005年の全廃直前の名鉄岐阜線のネガを何本かスキャンしたので、ちょっとずつご紹介したい。
(※)撮影時刻は写真データのものです。したがって、実際の時刻とは多少前後します。
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