日光軌道203号車 <後編> [保存車・博物館・廃線跡]
本当は...実は昨日は“フライング”ながら、ちょっと“出撃”しようと思って
その準備をしていた。日帰りだから予約はしていなかったものの、撮影プランも
決めて、現地の天気予報も「晴れ・27℃」、最高のコンディションである。
火曜日の深夜まで「行くつもり」だった。でも...
仕事が全然進んでいなかったのである。
というわけで、自宅で仕事をしつつ一度も外出すること無く、昨日まる1日...
<会社員鉄>として、一番フラストレーションが...そんな展開だった。
ようやく仕事の方は何とか目途が立ってきて。
【2018年10月18日12時49分】 東京都墨田区東向島・東武博物館
そんなわけで引き続き、2年前の東武博物館の話題。いまでこそ、渡り線を
つくって、新宿・池袋発の特急列車が東武日光まで直通する時代になったが、
浅草-東武日光の東武と、上野-宇都宮-日光の国鉄(→ JR)は長らく
ライバル同士で、しかもほとんどの時代において東武のワンサイドゲーム
だったのである。
その時代の東武特急のエース...前頭部だけ切り取られて保存されているのは
<鉄>としてはちょっと遺憾なことだが、それでも...
フツーの<鉄>なら、このあたりに注目しそう。車内に“ジュークボックス”を
備えていたあたり、東武の気合いの入れようと時代を感じさせる。
でも、<変態鉄>のお目当ては...
…… ……
2018年10月18日(木)曇り
東武日光軌道線。大手私鉄で路面電車を“兼業”していたところは珍しくない。
京王のように路面電車に端を発する路線が、大型化、スピードアップの中で
徐々に道路上の線路を放棄し、新設軌道を整備して、そちらに移転したケース。
例えば兵庫県の山陽電車もその1つかも知れない。
【2015年11月29日12時49分】 江ノ島電鉄・腰越-江ノ島
そして、その進化の過程を、もう少し“手前”の段階でよく残しているのが
江ノ電...といったところか。高床式の2・4両編成の電車は、ちょっと小ぶりながら
フツーの私鉄電車とそう大きく変わらず。
でも、腰越-江ノ島間は道路併用軌道区間。七里ヶ浜付近や極楽寺の先でも
併用軌道時代を偲ばせるような風景が広がっている。保存車の“タンコロ”も。
それとは違って、都市間の高速鉄道...いや、高速だったか蒸機がノンビリ牽く
列車だったかは別として。
最初から都市間鉄道を意図して敷設されたものが、両端の都市部だけは路面上を
走って、小まめに電停に停まりながら...というパターンも。
【2020年1月3日11時56分】 阪堺電気軌道上町線・阿倍野-松虫
さらには戦時統合をはじめとした、中小鉄道会社の合併で都市間鉄道を運行する
会社と路面電車の会社が合併して、路面電車が「1部門」となったパターンも。
それぞれがそれぞれで経緯があるので、そう簡単に線引きはできないものの
拙ブログで頻繁に登場する路線だと、阪堺電車はそうだろうか。
このほか、純粋に(?)、同一会社が路面電車部門と高速鉄道部門を別々に
もっていて、それらを運行していた...というパターンも存在するわけで。
このあたり、昭和の頃の“戦時統合”だけではなく、明治時代以降の
「鉄道国有化法」「軌道条例」あたりとの絡みなど、諸外国とは
これまた違った歩みをしてきているのがわが国の電車たち。
そのあたりの詳しい考察は、もっとアカデミックな、マジメな<鉄>ブログに
譲ることとして。
いや、「責任を持って、オマエが書け!!」と言われても、
“知性よりも痴性”、 <変態鉄>になぞ書けるはずも無く。
まぁ、とりあえず。
【2018年10月18日12時51分】 東京都墨田区東向島・東武博物館
そんな訳で東武鉄道も路面電車を運行していたのである。
いま、考えればまったく想像もできないのだが...
【2018年10月18日13時16分】 東京都墨田区東向島・東武博物館
もちろん、東武博物館にもその展示が...あっさりではあるが...ポイントを
抑えており。
<変態鉄>は、全然知るよしも無かったのだが、かつては「伊香保軌道線」
というのもあって。日光と伊香保で路面電車を運行していたのである。
しかも、その伊香保軌道というのがスゴくて...
高崎-渋川-伊香保という長距離路線。1956年(昭和31年)全廃だから、
すでに現役時代を知るのは70代以上の方に限られてしまい。だからこそ、
ほとんど残っているものも無く。確か、どこかの病院で利用されていた車両を
最近、復元展示したのが伊香保の温泉街にあったような...
(※ 曖昧な記憶に基づくテキトーな記述です)
いつか伊香保まで探しに行ってみたいが、なかなか行く機会に恵まれないのである。
さて、そして日光軌道線。
【2018年10月18日13時16分】 東京都墨田区東向島・東武博物館
もちろん観光輸送の一翼も担ったわけだが、もともと敷設されたのが
古河鉱業の精銅所向けの貨物輸送が重要な目的で。
その関係で末期まで電動貨車を使った貨物輸送も行われており、その写真も
残されている。
さて、数段の階段を上れば203号車の車内へ。
【2018年10月18日13時20分】 東京都墨田区東向島・東武博物館
まず、この電車。なんといっても連接車である。
逆に言えば、当時の日光軌道線は2両連接でないと需要を賄えなくなるような
輸送量だったと考えることもできる訳で。もちろん、“単車”も作られている。
連接部分が丸いのはいまも昔も変わらない!?
福井の街を走る名鉄岐阜線出身の連接車の車内も、こんな感じになっている。
【2018年10月18日13時18分】 東京都墨田区東向島・東武博物館
内装は木張りの、つまり“半鋼製”、白熱灯照明の車内もこの時代のものとして
標準的な仕様だろうか。
【2018年10月18日13時18分】 東京都墨田区東向島・東武博物館
路面電車として何だか...感じていた違和感。そう、考えてみれば。
乗務員扉があったのである。車掌さんが乗務していたのは分かるが、それでも
路面電車で乗務員室扉を設けているのは少数派であるような気がする。
横にあるドアスイッチは塗り潰されているが「此の戸・他の戸」というのが
2つ並んでいるタイプ。マイクもスピーカーもないので、車内放送装置は無くて
廃止時まで車掌さんが車内を回りながら次駅名を告げていたのだろうか。
【2018年10月18日13時20分】 東京都墨田区東向島・東武博物館
往時のものだと思われるが...
ドアのところの注意書きが残っていた。「おさえぬように」だろうか。
危険の「険」の自体と「押えぬ」という仮名遣いに時代を感じる。
【2018年10月18日13時20分】 東京都墨田区東向島・東武博物館
「おおっ!! 製造銘板が残っている!!」と思ったら、それは単なる、ぬか喜び。
メンテナンスを行ったときのものだろうか。「平成21年」、すでに東向島に
来てから、相当な時間が経過していた時期。
そう、「昭和29年」の銘板だったらこんなにピカピカである筈も無く。
そんなわけで、この日のメインを見終えたのだった。(つづく)
(※)撮影時刻は写真データのものです。したがって、実際の時刻とは多少前後します。
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その準備をしていた。日帰りだから予約はしていなかったものの、撮影プランも
決めて、現地の天気予報も「晴れ・27℃」、最高のコンディションである。
火曜日の深夜まで「行くつもり」だった。でも...
仕事が全然進んでいなかったのである。
というわけで、自宅で仕事をしつつ一度も外出すること無く、昨日まる1日...
<会社員鉄>として、一番フラストレーションが...そんな展開だった。
ようやく仕事の方は何とか目途が立ってきて。
【2018年10月18日12時49分】 東京都墨田区東向島・東武博物館
そんなわけで引き続き、2年前の東武博物館の話題。いまでこそ、渡り線を
つくって、新宿・池袋発の特急列車が東武日光まで直通する時代になったが、
浅草-東武日光の東武と、上野-宇都宮-日光の国鉄(→ JR)は長らく
ライバル同士で、しかもほとんどの時代において東武のワンサイドゲーム
だったのである。
その時代の東武特急のエース...前頭部だけ切り取られて保存されているのは
<鉄>としてはちょっと遺憾なことだが、それでも...
フツーの<鉄>なら、このあたりに注目しそう。車内に“ジュークボックス”を
備えていたあたり、東武の気合いの入れようと時代を感じさせる。
でも、<変態鉄>のお目当ては...
…… ……
2018年10月18日(木)曇り
東武日光軌道線。大手私鉄で路面電車を“兼業”していたところは珍しくない。
京王のように路面電車に端を発する路線が、大型化、スピードアップの中で
徐々に道路上の線路を放棄し、新設軌道を整備して、そちらに移転したケース。
例えば兵庫県の山陽電車もその1つかも知れない。
【2015年11月29日12時49分】 江ノ島電鉄・腰越-江ノ島
そして、その進化の過程を、もう少し“手前”の段階でよく残しているのが
江ノ電...といったところか。高床式の2・4両編成の電車は、ちょっと小ぶりながら
フツーの私鉄電車とそう大きく変わらず。
でも、腰越-江ノ島間は道路併用軌道区間。七里ヶ浜付近や極楽寺の先でも
併用軌道時代を偲ばせるような風景が広がっている。保存車の“タンコロ”も。
それとは違って、都市間の高速鉄道...いや、高速だったか蒸機がノンビリ牽く
列車だったかは別として。
最初から都市間鉄道を意図して敷設されたものが、両端の都市部だけは路面上を
走って、小まめに電停に停まりながら...というパターンも。
【2020年1月3日11時56分】 阪堺電気軌道上町線・阿倍野-松虫
さらには戦時統合をはじめとした、中小鉄道会社の合併で都市間鉄道を運行する
会社と路面電車の会社が合併して、路面電車が「1部門」となったパターンも。
それぞれがそれぞれで経緯があるので、そう簡単に線引きはできないものの
拙ブログで頻繁に登場する路線だと、阪堺電車はそうだろうか。
このほか、純粋に(?)、同一会社が路面電車部門と高速鉄道部門を別々に
もっていて、それらを運行していた...というパターンも存在するわけで。
このあたり、昭和の頃の“戦時統合”だけではなく、明治時代以降の
「鉄道国有化法」「軌道条例」あたりとの絡みなど、諸外国とは
これまた違った歩みをしてきているのがわが国の電車たち。
そのあたりの詳しい考察は、もっとアカデミックな、マジメな<鉄>ブログに
譲ることとして。
いや、「責任を持って、オマエが書け!!」と言われても、
“知性よりも痴性”、 <変態鉄>になぞ書けるはずも無く。
まぁ、とりあえず。
【2018年10月18日12時51分】 東京都墨田区東向島・東武博物館
そんな訳で東武鉄道も路面電車を運行していたのである。
いま、考えればまったく想像もできないのだが...
【2018年10月18日13時16分】 東京都墨田区東向島・東武博物館
もちろん、東武博物館にもその展示が...あっさりではあるが...ポイントを
抑えており。
<変態鉄>は、全然知るよしも無かったのだが、かつては「伊香保軌道線」
というのもあって。日光と伊香保で路面電車を運行していたのである。
しかも、その伊香保軌道というのがスゴくて...
高崎-渋川-伊香保という長距離路線。1956年(昭和31年)全廃だから、
すでに現役時代を知るのは70代以上の方に限られてしまい。だからこそ、
ほとんど残っているものも無く。確か、どこかの病院で利用されていた車両を
最近、復元展示したのが伊香保の温泉街にあったような...
(※ 曖昧な記憶に基づくテキトーな記述です)
いつか伊香保まで探しに行ってみたいが、なかなか行く機会に恵まれないのである。
さて、そして日光軌道線。
【2018年10月18日13時16分】 東京都墨田区東向島・東武博物館
もちろん観光輸送の一翼も担ったわけだが、もともと敷設されたのが
古河鉱業の精銅所向けの貨物輸送が重要な目的で。
その関係で末期まで電動貨車を使った貨物輸送も行われており、その写真も
残されている。
さて、数段の階段を上れば203号車の車内へ。
【2018年10月18日13時20分】 東京都墨田区東向島・東武博物館
まず、この電車。なんといっても連接車である。
逆に言えば、当時の日光軌道線は2両連接でないと需要を賄えなくなるような
輸送量だったと考えることもできる訳で。もちろん、“単車”も作られている。
連接部分が丸いのはいまも昔も変わらない!?
福井の街を走る名鉄岐阜線出身の連接車の車内も、こんな感じになっている。
【2018年10月18日13時18分】 東京都墨田区東向島・東武博物館
内装は木張りの、つまり“半鋼製”、白熱灯照明の車内もこの時代のものとして
標準的な仕様だろうか。
【2018年10月18日13時18分】 東京都墨田区東向島・東武博物館
路面電車として何だか...感じていた違和感。そう、考えてみれば。
乗務員扉があったのである。車掌さんが乗務していたのは分かるが、それでも
路面電車で乗務員室扉を設けているのは少数派であるような気がする。
横にあるドアスイッチは塗り潰されているが「此の戸・他の戸」というのが
2つ並んでいるタイプ。マイクもスピーカーもないので、車内放送装置は無くて
廃止時まで車掌さんが車内を回りながら次駅名を告げていたのだろうか。
【2018年10月18日13時20分】 東京都墨田区東向島・東武博物館
往時のものだと思われるが...
ドアのところの注意書きが残っていた。「おさえぬように」だろうか。
危険の「険」の自体と「押えぬ」という仮名遣いに時代を感じる。
【2018年10月18日13時20分】 東京都墨田区東向島・東武博物館
「おおっ!! 製造銘板が残っている!!」と思ったら、それは単なる、ぬか喜び。
メンテナンスを行ったときのものだろうか。「平成21年」、すでに東向島に
来てから、相当な時間が経過していた時期。
そう、「昭和29年」の銘板だったらこんなにピカピカである筈も無く。
そんなわけで、この日のメインを見終えたのだった。(つづく)
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